オンライン対応から教育のDXへ

  • 対談

大学の情報基盤変革の在り方を探る

(写真上)
東京大学情報基盤センター
情報メディア教育研究部門 教授 理学博士
柴山 悦哉 氏
Etsuya Shibayama

(写真下)
キヤノンITソリューションズ株式会社
文教ソリューション事業部長
酒井 俊明
Toshiaki Sakai

コロナ禍の影響でリモート化やオンライン化が急速に進んだのは、ビジネスの現場だけでなく教育現場でも同様だ。東京大学ではいち早くオンライン授業を取り入れるほか、以前から導入していた学習管理システム(LMS)を増強して対応を進めた。こうした取り組みは教育のDXにどう影響していくのか、東京大学情報基盤センターの柴山教授と、同大学にLMSを納入してきたキヤノンITソリューションズの文教ソリューション事業部長、酒井俊明が語り合った。(以下、敬称略)

大学の情報基盤に迫る変化への流れ

大学の情報基盤を取り巻く環境について、これまでの歴史と現在の状況を教えてください。

柴山東京大学情報基盤センターは、1999年に設置されました。インターネットがはやりだした頃のことで、図書館の一部と2つの計算機センターを改組してできた組織です。現在は、情報メディア教育研究部門、データ科学研究部門、ネットワーク研究部門、スーパーコンピューティング研究部門の4部門が中心になって研究を続けています。

酒井東京大学では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応としていち早くオンライン授業を開始するといった様子が、昨年春には大きく話題になりました。情報基盤センターとしてもこの1年は大変だったのではないでしょうか。

柴山「研究の高度化」と「教育の高度化」に力を入れてきた1年でした。研究の高度化では、新しいスーパーコンピューターを導入したり、データ活用を推進したりしてきました。私が所属する情報メディア教育研究部門は、教育支援のための計算基盤の整備がミッションです。これまでに授業で使うためのMacを学内に千数百台導入し、学習管理システムLMS(Learning Management System)を運用してきました。また、クラウド型グループウェアサービス「Google Workspace for Education」の運用、メールやWebのホスティングも担っています。もともとは情報教育をサポートするという立場でしたが、情報を活用するための基盤を整備するという立場にシフトしており、そうした中でオンライン授業が急速に広がりました。

酒井キヤノンITソリューションズ(キヤノンITS)も、教育支援という側面では東京大学とは長くお付き合いいただいています。古くは学生や教員が使うハードウェアとしての端末を納入してきましたし、2014年からLMSアプリケーションを採用していただき、ハード、ソフトの両面から授業支援のソリューションを提供しています。ハードだけでなく、ソフトを融合させて授業を進める形に変化していることで、学びのトランスフォーメーションがこの先に来るのではと感じているところです。

柴山実際、オンライン授業に対する需要が、突然一気に跳ね上がりました。情報基盤に対する需要がものすごく増えてしまい、その対応を求められたのがこの1年でした。

情報基盤と同時に人的体制整備が不可欠

東大の情報基盤ではコロナ禍でどんな変化が起きましたか。

柴山1つは授業形態の変化です。オンラインに対応しなければならないので、「Zoom」や「Cisco Webex」などのビデオ会議システムを導入しました。これまでオンライン授業は実質的になかったので、ゼロからの変化です。もう1つは授業管理の変化で、導入済みのLMSを増強しました。これは量が圧倒的に増えたことへの対応です。さらに、大学職員が在宅勤務できる環境の整備です。東大の職員は「Microsoft Teams」を使うことが多いのですが、利用する端末の問題や学外からのアクセスのためのVPN(仮想閉域網)の同時接続数が足りなくなるなど、苦労しました。

酒井こうした対応は、東京大学だけでなく、多くの大学が直面することになりました。もちろん企業も同様で、キヤノンマーケティングジャパングループでもコロナ禍で働き方が変わり、インフラの対応が求められるようになりました。

柴山情報基盤の整備にも多くの手間がかかりましたが、より大変だったのは人的体制の整備でした。大学はトップダウンですぐに動くような組織ではないため、情報基盤センターは、大学トップと現場の両方と話をして、実現可能な方法を見つけてなんとかオンライン授業の実施に短期間でこぎつけました。

コロナ禍のような緊急事態では、日常とは解決の方法が異なるのですね。

酒井エンドユーザーにとって、ネットワークインフラは水や空気と同じでつながって当たり前なんですね。しかし、コロナ禍で皆が一斉にネットワークを使うようになると、平時と同じにはできないのです。柴山先生も苦労なさったと思います。

柴山LMSの増強はキヤノンITSにお願いしました。昨年3月ごろは言葉は悪いですが「丸投げ」でいいと思っていたところ、4月に実際に稼働してみると過負荷に陥ってしまいました。そこで、キヤノンITSのエンジニアと密に連絡を取り合って、4月中に問題が起こらないレベルに持っていきました。

酒井今回は通常ではあり得ない大学と企業が連携した体制でDevOpsのサイクルを回していきました。SIerとして、大きな成長が求められたと感じています。

大学教育にも押し寄せるDXの波

オンライン授業に対する学生の不満の声も聞かれる中、東大生の7割がオンライン授業に賛成というアンケート結果があります。

柴山オンライン授業を肯定的に捉えるということは、対面授業に否定的とも言えるわけです。情報技術は革新的に進歩していたのに、2019年度までの授業は、長時間かけて通学して、大教室の板書をノートに取っていたのですから。オンラインなら、文字も見やすく、通学も不要です。肯定的な意見が出る1つの側面でしょう。半面、教員からは学生の反応が分かりにくい、学生も周りの学生の様子が見えなくなって不安だといった不満もあります。良い面も悪い面も見えてきたという印象です。

酒井いろいろな大学に話を聞きますが、同じような状況ですね。その中でオンライン授業への評価というのは、学年によって大きな違いがあると感じています。新入生では否定的な意見が多いです。またアンケートの内容も、オンライン授業に限定したものか、キャンパスライフ全体のアンケートの一部としてのオンライン授業の評価なのかで違ってくるでしょう。

柴山直前まで高校生だった1年生には、やりにくいという感覚があったでしょう。また自律性が高く振る舞えるときはオンライン授業でも平気で、空気を読んで動くときはそうでもない傾向もあります。これは企業でも同じことだと思います。

こうした変化は、大学教育のDXの促進という側面でも表面化していますか。

柴山デジタル技術の活用には2つの側面があると思います。1つは今回のオンライン授業や在宅勤務のようなネットワークの活用で、遠隔で授業や業務を実現できるようにすること、もう1つはDXの本流というべきコンピューターを活用したオートメーションによる変革です。自動化のほうはあまり進んでいません。

酒井コロナ禍の影響で文部科学省が教育のDXを強力に掲げるようになりました。ただ、まだ多くの人たちの考え方がまちまちだと思います。教育のDXといったとき、まずイメージするのはオンライン授業などを含めたデジタルの利活用でしょう。一方で柴山先生がおっしゃるように、自動化などによって課題を克服して教育をより高度化することも求められます。

柴山まだ大学ではDXを本格的には捉えきれていないと思います。これまで対面授業をしていたのを、コロナ禍でオンライン授業に変え、今後はハイブリッド授業にする。これは、小売業のオムニチャネル戦略のようなものです。しかし、小売業では同時にデータを活用して経営に生かしていく改革も進めています。教育現場ではそうしたDXの本質の取り組みが進んでいません。

データを活用する教育機関の在り方

DXによって大学の教育はどのように変化していくと考えますか。

柴山教育面では、オンライン授業の導入により、学生の行動履歴がデータ化されて、教育内容がカスタマイズする方向に進みます。これまでの大学の授業はマスプロ的でしたが、1対1に近い教育が人海戦術に頼らずにできるようになるでしょう。データを活用したカスタマイズは大量のデータが必要ですから、大人数の授業からカスタマイズが進むでしょう。

酒井すでにオンライン授業の良い面は顕在化しています。時間や場所の制約から解放されることで、学習の選択肢が増えます。留学しなくても海外の大学とコラボレーションすることも可能です。教育のカスタマイズも、アダプティブラーニングといった形で進んでいくと思います。

柴山大学の経営面でも、海外の大学でLMSのデータ活用が進んでいます。学生の活動履歴を分析して、ドロップアウトしそうな人を見つけ出し退学しないようにサポートするわけです。米国の私立大学は日本の国公立大学よりも学費が1桁ほど高く、学生を退学させないことは重要な経営課題なのです。さらにこうした考えを進めると、学生のバイタルデータを分析して、体調のいいときに授業をしたり、似たような体調の人がどんな学習で効果を上げているかをデータからサジェストしたりといったことも技術的にはできるでしょう。プライバシーの問題もありますし難しい課題ですが、教育の質は国の未来を左右しますから、重要な示唆を含んでいると思います。

酒井デジタルの利活用というと、学ぶ側にフォーカスが当たることが多いです。しかし、教える側はどうか、デジタルによって教える質が変わったり、高度な教え方ができるようになったりすることもあるでしょう。教える側と学ぶ側の両方にデジタルの活用が必要になると考えています。キヤノンITSの1社だけで教育のDX化を支えることは難しいですが、大学の方とアイデアを交換しながら、教育の質の向上に貢献していきたいです。

柴山米国に比べて日本のITは周回遅れといわれます。欧米では人材の流動性が高く、産学のコラボレーションがしやすい環境にあります。日本の文教部門のITでも、企業と大学の間を動き回れる優秀なDX人材を育てないといけないでしょう。業界全体として優れた人材を育てることに取り組み、自社の利益だけでなく社会的責任を持った活動ができるようになることを望んでいます。

情報基盤センターは今後どのような取り組みを進めていく考えですか。

柴山情報基盤センターは、東京大学全体の教育や研究の基盤を整備しています。教育では、オムニチャネル戦略のように対面、リアルタイムオンライン、オンデマンドを組み合わせた教育機会の拡大と、学習データを集めて活用するラーニングアナリティクス戦略の導入が必要です。また各論になりますが、教育にはAR(拡張現実)やVR(仮想現実)が向いたコンテンツもあります。例えば、VRを使って医学部で手術のシミュレーションをしたり、農学部で圃場や演習林などでの演習をオンライン化したりするように、コンテンツをデジタル化することで、現物を使わずに教育する方法論を今後確立していきたいです。

酒井ARやVRの教育での活用は、学会などでも取り上げられるようになっています。AR、VRを含めた総称であるXRについては、キヤノンITSでも研究開発を続けていますので、ご協力できる部分があると思います。

柴山一方、研究分野ではデータの利活用が最大のテーマです。情報基盤センターにはスーパーコンピューターがありシミュレーションを用いた研究が多く行われてきました。これは、方程式を解いて未来を予測するような演繹的な推論が主です。一方、現在勢いが急増しているのはデータを利活用した帰納的な推論のほうです。もう1つ、ネットワークインフラを運用する側面では、どこにいても仕事ができる、学習ができるという環境を整えるだけでなく、いつでもどこでも誰とでも学習できる方向性のインフラ整備も検討しています。

酒井キヤノンITSの文教ソリューション事業部のミッションは、教育をITで支え、教育の質の向上に貢献することです。東京大学の情報基盤センターで活躍されている方々の支援をし、学生の皆さんにしっかりとした価値を提供できるようにしていきます。

柴山 悦哉 氏

柴山 悦哉(しばやま・えつや)

1983年京都大学大学院理学研究科修士課程修了。同年東京工業大学理学部助手。1990年龍谷大学理工学部講師。1993年東京工業大学理学部助教授。その後、同大学大学院情報理工学研究科助教授および教授を経て、2008年より東京大学情報基盤センター教授。東京大学理学博士。日本ソフトウェア科学会理事長、情報処理学会理事、日本学術会議第三部会員などを歴任。

酒井 俊明

酒井 俊明(さかい・としあき)

1991年、キヤノン販売(現キヤノンマーケティングジャパン)入社。2016年キヤノンマーケティングジャパンMA事業部文教営業本部長(兼)キヤノンITソリューションズSIサービス事業部文教開発本部担当本部長。2020年よりキヤノンITソリューションズ文教ソリューション事業部長。

※ 記事中のデータ、人物の所属・役職などは、記事掲載当時のものです。